古代中国の貴族階級は、その人の家柄を基準に親あるいは主君が決めた相手と見合い結婚するのが一般的でした。貴族階級出身の曹操、地方豪族出身の孫権といえども、その例外ではありませんでした。
曹操(155-220)は元々の姓を夏侯といいましたが、父曹嵩が有力な宦官曹騰の養子となったために曹氏を名乗りました。後漢時代の有力宦官は、子孫を残せない自分の祭祀と財産を受け継いでもらうために養子を取ることが多かったと言います。夏侯氏の先祖は前漢の功臣夏侯嬰だそうです。曹騰は後漢末期の有力宦官だったため、養子を取るにもある程度家柄を考慮したでしょう。要するに曹操の血筋は一流とまではいかないものの、そこそこの家柄の貴族だったと思われます。メル友募集
そうして後漢末期の結婚市場に登場した青年曹操は、そこそこの家柄の出身であること・親が大富豪として知られていたこと・本人が才気煥発で高い教養の持ち主であることというプラス要素と、貴族から軽蔑されるべき存在である宦官の養孫であること・外見がお世辞にも美男とは言えなかったことというマイナス要素を総合的に見て、当時の貴族たちの目には「中の上」あるいは「中の中」物件と映ったことでしょう。
後年、曹操が家柄や経歴に関係なく才能ある人材を積極的に登用したのも、曹操自身が出自に問題があったことの裏返しでしょう。